アート思考・デザイン思考で目指す地域のウェルビーイング向上:心豊かな暮らしをデザインする実践ガイド
はじめに:地域課題解決のその先へ、ウェルビーイングという視点
地域課題解決に取り組む際、経済活性化やインフラ整備といった客観的な指標に焦点が当てられがちです。しかし、真に目指すべきは、その地域に暮らす人々が心豊かに、主体的に生きられる状態、すなわち「ウェルビーイング(Well-being)」の向上ではないでしょうか。ウェルビーイングとは、身体的、精神的、社会的に良好な状態であり、単に病気でないことや経済的に豊かであることにとどまらず、個人の幸福感や生きがい、社会とのつながりといった主観的な側面も強く含みます。
アート思考は既成概念を問い直し、独自の視点から本質を探求するプロセスであり、デザイン思考は人間中心のアプローチで課題解決を目指すフレームワークです。これら二つの思考法は、地域におけるウェルビーイング向上という、複雑で多面的な目標を達成するための強力なツールとなり得ます。客観的なデータだけでは見えにくい、地域住民の「心の声」や潜在的なニーズを捉え、共感を呼び、共に創造していくプロセスは、ウェルビーイング向上に不可欠な要素だからです。
この記事では、アート思考とデザイン思考を組み合わせることで、地域におけるウェルビーイングをどのように捉え、デザインし、具体的な実践へとつなげていくかについて、具体的なステップと留意点を含めて解説いたします。
地域におけるウェルビーイングとは何か?
地域におけるウェルビーイングは、その地域の歴史、文化、社会構造、そしてそこに暮らす人々の価値観によって多様な形をとります。例えば、高齢者が安心して暮らせる医療・福祉サービスの充実、子どもたちがのびのびと学べる環境、自然との触れ合い、地域住民同士の温かい関係性、文化活動へのアクセスなどが含まれるでしょう。重要なのは、これらが単なる「サービス」や「施設」の提供に留まらず、住民一人ひとりの「生きがい」や「幸福感」、「居場所」や「役割」といった感覚に深く結びついている点です。
従来の地域計画では、人口増加、所得向上、雇用創出などの経済指標や、道路整備率、公園面積などのインフラ指標が重視される傾向にありました。これらも重要ですが、ウェルビーイングはさらに進んで、「この地域に住んでいてよかった」「地域の一員として貢献できている」「将来に希望が持てる」といった、より主観的で感情的な側面に光を当てます。
アート思考は、こうした数値化しにくい、感性的な側面に「問い」を立てることを得意とします。「この地域の『心地よさ』とは何か?」「住民が『生きがい』を感じる瞬間は?」「『豊かさ』とは経済的なものだけか?」といった問いを立てることで、地域課題のさらに根源にある、人々の「ありたい姿」や「大切にしたい価値観」に迫ることができます。
アート思考によるウェルビーイングへの「問い」とデザイン思考による実践プロセス
アート思考で立てた根源的な問いに対し、デザイン思考は具体的な解決策を生み出し、形にするための実践的なフレームワークを提供します。ウェルビーイング向上に向けたデザイン思考のプロセスは、以下のステップで進めることが考えられます。
1. 共感 (Empathize):住民の心の声に耳を傾ける
ウェルビーイングは極めて個人的な感覚に基づいています。そのため、統計データだけでは捉えきれない、地域住民一人ひとりの多様な声、願望、不安、喜び、そして「違和感」に深く共感することが出発点です。
- アート思考の視点を取り入れた共感リサーチ:
- 「違和感」の収集: 普段の暮らしの中で「何かが違う」「こうだったらいいのに」と感じる、言語化されにくい感覚を捉えます。例えば、日記形式で感情や印象を記録してもらう、写真やイラストで表現してもらうといった手法が有効です。
- 物語(ナラティブ)の収集: 住民の人生の物語、地域への思い、過去の経験、将来の夢などを丁寧に聞き取ります。単なる事実だけでなく、その背景にある感情や価値観に焦点を当てます。
- 観察: 住民が普段どのように生活し、どのような場所で時間を過ごし、どのような交流を持っているのかを客観的に観察します。表層的な行動だけでなく、その行動の裏にある意図や感情を推察します。
これらのリサーチを通じて、地域住民が「どんな時にウェルビーイングを感じ、どんな時に失うのか」についての深い洞察を得ます。
2. 定義 (Define):真の課題を明確にする
共感ステップで得られた膨大な情報の中から、ウェルビーイング向上に向けた真の課題を定義します。これは、表面的な問題ではなく、その根源にあるニーズや課題を言語化する作業です。
- アート思考で得た洞察の活用: リサーチで収集した「違和感」や「物語」から見えてきた、地域に潜在する「ありたい姿」と「現状」とのギャップを明確にします。例えば、「高齢者が孤立している」という表面的な問題に対し、「地域とのつながりを通じて、再び社会との接点を持ち、役割を持ちたいという欲求が満たされていない」といった、より人間中心的な課題として再定義します。
- 「〜という人は、〜だと感じている。なぜなら、〜だからだ。」 といった、ユーザー(住民)の視点に立った課題定義文を作成します。
3. 概念化・アイデア発想 (Ideate):多様な解決策を生み出す
定義された課題に対し、既成概念にとらわれない自由な発想で多様なアイデアを生み出します。ここでは、アート思考の「問い」がアイデアの幅を広げます。
- 「もし〜だったら?」という問いかけ: 「もし、この地域に暮らす全員が毎日誰かと笑い合えるとしたら?」「もし、お金が全くなくても最高の体験ができるとしたら?」など、非現実的に思える問いを立てることで、思考の枠を外します。
- 異分野のインスピレーション: アート、演劇、音楽、自然など、一見関係のない分野からインスピレーションを得て、地域課題解決のアイデアに繋げます。
- 多様な参加者との共創: 地域住民、アーティスト、デザイナー、異なる分野の専門家など、多様な視点を持つ人々が集まり、ブレインストーミングやワークショップを行います。アート思考で培われる「他者の視点を受け入れる柔軟性」が重要になります。
4. プロトタイプ (Prototype):アイデアを形にして試す
生まれたアイデアの中から有望なものを選び、実際に体験できる形に「プロトタイプ」として落とし込みます。これは完成品ではなく、あくまでアイデアを検証するための試作品です。
- 「小さく、早く、安く」: 大規模な予算や時間をかけるのではなく、紙芝居、寸劇、模型、簡易的なサービス体験など、手軽に作れるものから始めます。
- 体験のデザイン: ウェルビーイングは体験や感覚に強く紐づいているため、プロトタイプは単なるモノだけでなく、サービスの流れや人々のインタラクションといった「体験」そのものをデザインすることに重点を置きます。例えば、新しい交流の場を作るアイデアなら、実際の場所で小規模なイベントを試験的に開催してみるといった形です。
- 住民参加型のプロトタイピング: プロトタイプ作成の過程に住民を巻き込むことで、アイデアへの共感を高め、共に創造する意識を醸成します。
5. テスト (Test):フィードバックを得て改善する
作成したプロトタイプを実際に住民に体験してもらい、率直なフィードバックを得ます。このフィードバックをもとに、アイデアやプロトタイプを改善し、次のステップへと繋げます。
- 観察と対話: プロトタイプを体験する住民の反応を注意深く観察し、体験後に丁寧な対話を行います。「どう感じたか」「何が良かったか、悪かったか」「期待と違った点は?」といった問いかけを通じて、深い洞察を引き出します。
- 「見えにくい成果」の評価: ウェルビーイング向上への貢献は、単なる参加人数や事業費だけでは測れません。「参加者の表情の変化」「交わされた言葉の内容」「その後の行動の変化」など、定性的な情報からウェルビーイングへの影響を評価する視点が必要です。アート思考の感性的な視点や、物語的なアプローチがここでも役立ちます。
このテストと改善のサイクルを繰り返すことで、地域の実情に即し、住民のニーズに本当に応えることのできるウェルビーイング向上策へと磨き上げていきます。
実践における留意点と課題、そして乗り越え方
アート思考とデザイン思考を用いた地域でのウェルビーイング向上実践は、いくつかの課題に直面する可能性があります。
- 「成果」の見えにくさ: ウェルビーイングは主観的な側面が強く、数値化しにくい概念です。事業の成果として、経済効果や参加者数だけでなく、住民の幸福感、生きがい、安心感といった無形の価値をどのように捉え、関係者(行政、NPO、企業など)に伝えるかが課題となります。
- 対処法: 定量的なデータと合わせて、住民のインタビュー記録、写真、活動中のエピソード、アンケートの自由記述欄、日記形式の記録など、定性的な情報を丁寧に収集し、ストーリーとして伝える工夫をします。アート思考で培われる「物語を紡ぐ力」が重要です。
- 住民の多様なウェルビーイング観の調整: 地域には多様な価値観を持つ人々が暮らしており、ウェルビーイングの定義も人によって異なります。すべての人のニーズを同時に満たすことは困難であり、意見の対立が生じることもあります。
- 対処法: デザイン思考の「共感」ステップで多様な声を丁寧に聞き取り、共通する根源的なニーズや価値観を探ります。また、アイデア発想やプロトタイピングの過程に多様な立場の人々を巻き込み、対話と共創を通じて合意形成を図ります。アート思考の「異質なものを受け入れる寛容さ」が求められます。
- 持続可能な取り組みとするための工夫: 単発のプロジェクトで終わらせず、ウェルビーイング向上に向けた取り組みを地域に根付かせ、継続していくためには、資金、人材、運営体制などの課題をクリアする必要があります。
- 対処法: プロジェクトの初期段階から、地域のリソース(人材、場所、既存組織など)の活用を計画に組み込みます。また、ウェルビーイング向上という抽象的な目標だけでなく、具体的な活動内容や提供価値を明確にし、共感する仲間を増やし、連携パートナーを見つける努力が必要です。小さな成功事例を積み重ね、可視化し、共有することで、地域全体のウェルビーイングへの意識を高めることも重要です。
まとめ:アートとデザインの力で、地域に心豊かな未来を描く
アート思考とデザイン思考は、地域課題解決の枠を超え、その先の「ウェルビーイング」という、より人間的で深い豊かさを地域にもたらす可能性を秘めています。アート思考が提供する「問い」と「新たな視点」は、ウェルビーイングという捉えどころのない概念の本質に迫る手助けとなり、デザイン思考の「人間中心のプロセス」と「実践的な手法」は、その洞察を具体的な形にし、地域住民と共に創り上げる力を与えてくれます。
これらの思考法を地域の実践に活かすことは、単に問題を解決するだけでなく、地域に暮らす一人ひとりが自己肯定感を持ち、他者と繋がり、変化を生み出すプロセスそのものに参加することで、内側からウェルビーイングを高めていくことにつながります。
困難や不確実性も伴いますが、アート思考とデザイン思考の手法を用い、住民の「心の声」に耳を傾け、共感し、共にアイデアを生み出し、小さく試して改善を重ねていくことで、その地域ならではの心豊かな暮らしをデザインし、持続可能なウェルビーイングの実現へと一歩ずつ近づいていくことができるでしょう。このガイドが、皆様の地域におけるウェルビーイング向上に向けた実践の一助となれば幸いです。